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思ったことを忘れないように、考えたことを思い出せるように

静かな黄昏の国

 

遠い昔から、鎮守様の森の木を切れば祟りがあったし、ケルトの森にも、ゲルマンの森にも、魔が棲んでいた。森とはそういうところです。森は怖いところであるべきです。森に癒されるだの、自然に優しくだのというのは、前世紀の人々の感傷です。

 

『静かな黄昏の国』 / 篠田節子

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これから数十年後の衰退した日本を想定して書き上げたディストピア小説があると聞いたので読んでみた。初版は2002年、3.11の9年も前である。
 
静かな黄昏の国 (角川文庫)

静かな黄昏の国 (角川文庫)

 

 

「ようこそ森の国、リゾートピア・ムツへ―」化学物質に汚染され、もはや草木も生えなくなった老小国・日本。国も命もゆっくりと確実に朽ちていく中、葉月夫妻が終のすみかとして選んだのは死さえも漂白し無機質化する不気味な施設だった…。(Amazonより)
 
  • どれくらい絶望的な時代なのかというと
経済大国と呼ばれた頃の五、六十年前の面影など、もうこの国のどこにも残っていない。現在の日本は、繁栄を謳歌するアジアの国々に囲まれ、貿易赤字財政赤字と、膨大な数の老人を抱え、さまざまな化学物質に汚染されてもはや草木も生えなくなった老少国なのである。
これくらいである。The絶望。ディストピア感溢れる。
どうしたらそこまで落ちぶれられるのか、詳しい経緯はないけれどなかなかの凋落っぷりである。
膨大な数の老人を抱えているにも関わらず子どもたちから死んでいってしまう、社会インフラも破綻してしまい、国中がガタガタ、そんな世界。
 
  • ようこそ森の国、リゾートピア・ムツへ
そんな世界で暮らしていた葉月卓也、さやか夫婦の前に営業マンが現れ、終の棲家として自然豊かな本物の森の生活を提案する。行き先が分からないようにして連れてこられた場所は、日本には既に残っていないはずの仮想現実のような世界、本物の木を使ったログハウス、家の中では自動で床暖房が入り、川は温泉のように温かい。森では、規格外に大きいマッシュルームや5本足のカエル、深海魚のように目が飛び出し変形したヒレを持つ川魚、二つの頭が一つの動体に繋がっている鹿...
そんな森でも、「仮想現実でもいいじゃないか」「今の日本に森が残っていること自体に、感謝しなければ」と受け入れる住民たち。
 
  • 小さな円に三枚の扇形の羽

 施設内で知り合った女性を埋葬するためにお墓まで続くトンネルを移動しているときに、さやかは見覚えのあるマークを見つけ息を呑む。それは、小さな円に三枚の扇形の羽がついた放射線標識であった。

 経済的に立ち行かなくなった日本は、他国の放射性廃棄物を引き取り、その対価で食料費を輸入していた事実を知る。

森で見た大きいマッシュルームも、5本足のカエルも、深海魚のような川魚や、頭が二つあった鹿も、床暖も温泉のような川も、それらすべてが放射能による副産物だった。

 

現代に当てはめると『福島第一原発の周りは自然豊かな黄昏の国だけど、移住してきた住人たちは原発事故のことは知らない』そんなことありえるんかな、とも思うけど、これだけ荒廃している世界なのでメディアも荒廃しているのでしょう。

 

また、日本に唯一残された自然が今回のリゾートピア・ムツだったことから、別のことが読み取れる。

漏れだした放射能の毒性が、目先の利益のために木を切り倒し、造成地にしていく人間の野心から森を守り、おそらく日本でもたった一つの原始の森がここに残された。

少し前に見た沖縄のドキュメンタリーで米軍が基地の中に拝所を含めた森を残してくれているお陰で昔のまま神様を祀っていられるという話を思い出した。

これらの話は、放射能の危険性や軍隊などの大きな権力、市井の人が忌避するような強大な力がなければ昔からの神様や自然を守れないことを示しているようにも思える。皮肉である。

『サピエンス全史』ではないが、私たちは何を望みたいのか、というのを考えさせられる。

 

そして案の定、ホロコーストも、地球上の人口を十分の一にするウィルスも、南極の氷の融解とそれにともなう海面上昇も、何もなかった。

エイズの蔓延も地球規模の旱魃も、突出した技術の発達によって切り抜け、人口は現在も着実に増え続け、産業社会の崩壊も文化の後退も起こらず、ますますしたたかに、ますます不健全に、奇形と化した人類は繁栄を続ける。

それでもやがて終焉を迎えるだろう。しかしそれは、多くの預言者たちの言葉とは違い、極めて人工的静けさと穏やかさに包まれた、幸福な最期になるだろうとさやかには思える。そして闇のもたらす永遠の平和が訪れる。

 

終の住処を森とする、自然豊かな生活を送り最期を迎えたい、それは死を受け入れているようだが、逆に生に執着しているようにも見える。

村上春樹は「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」と言ったけれども、『静かな黄昏の国』では、死は生の延長ではなく、あくまで対極として存在しているようにも思えた。