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思ったことを忘れないように、考えたことを思い出せるように

Like father, like son.

『6年間はパパだったんだよ。出来損ないだけど、パパだったんだよ』


ビジネスマンの野々宮良多はある日、6歳になる息子が実は、出生時に病院内で取り違えられた他人の子供だったことを知る。
妻のみどり共々大きなショックを受けた良多は、重大な決断を下さなければならない事に苦悩しながらも、取り違えの相手である斎木夫妻との交流を重ねていく。


『そして父になる』 / 是枝裕和
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 5月だったか、カンヌ映画祭である日本映画が賞を取ったというニュースを見たときから、これは見なくてはと思っていたので公開早々観に行ってきた。

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  • そして父になるというテーマ

家族にとって大切なのは血のつながりかそれとも共に過ごした時間か、という問題について二つの家族がそれぞれ苦悩する、いやリリー・フランキー家はそんなに苦悩していなかったかもしれないけど。

数年育てた後に乳児の取り違えが発覚するというショッキングな事件に物語の先をどんどん知りたくなるけれど、時折描かれる野々宮良多の苦悩を観る度にタイトルを思い出させられる。これは、乳児取り違え事件の顛末を描いた映画ではなく、野々宮良多が父になるという成長の物語。

  • 対照的な両家

そんな野々宮良多がどのような子育てをしていたのかというと、ピアノを習わせ、お受験のための予備校にも通わせ、ゲームは一日30分、将来苦労するよりも今頑張っておいたほうが良いという理想的なエリート教育的家庭に見えなくもない。
対して斎木家は、妻のゆかりが「子どもが一人多いみたい」と言うように、父親が子どもと共に遊び一緒に下らない冗談を言い合うような家庭。二つの家庭が映画のなかで対照的に描かれている。

映画のなかでは、どちらの家庭が良いかというのが如実に描かれている。野々宮良多に対して、今まで育てた息子の慶多は「次はいつ向こうの家に行くの?」と問いかけ、週末だけ交換して過ごした琉晴は「いつになったら帰れるの?」と問いかける。

妻のみどりまで斎木家と仲良くなり、孤独になっていく良多だが、それでも単純に「斎木家:◯、野々宮家:✗」と思えなかったのは、野々宮良多の教育的な家庭作りのなかに見える”子どもと同じ目線”が感じられたからかも知れない。
慶多がピアノの練習をすると隣にしゃがみ連弾でピアノを弾いてみせる場面や、箸の持ち方が間違っている琉晴に対して隣に座り「琉晴君、ちょっと良いか、見てくれ」と箸を持って見せる場面。(どうでも良いけどなぜかここで泣いた。)
子どもと一緒に遊ぶ斎木雄大が良く描かれているが、野々宮良多もこのように子どもと一緒の目線になる良い場面だってあるのだ。

  • そもそもこの対称性は...

作中で斎木雄大が「この数週間で既に良多さんよりも多くの時間を慶多君と過ごしていますよ」という事を野々宮良多に告げるがこれはなかなか残酷だ、これはサラリーマン家庭と自営業家庭の差と言っても良い。出社して会社で働く野々宮と自宅兼仕事場で働く斎木どちらが多くの時間子どもと過ごせるかは明白だ。ではみんなが斎木のように生きれば良いのだろうか、というとこれは一種の理想のようにも見える。目指すべきなのだろうけれども、すべての人は実現できない。それを斎木は言葉にして野々宮に突き付ける、この場面はそんなもののように思えた。

 

  • いつ父になるのか?今でしょ

子どもを交換して数日、野々宮良多は会社にある人工林のなかで、蝉は人工の森に住み着くには15年はかかるという話を聞く。この時、それくらいの時間を”親子の繋がり”を認識するまで必要だと覚悟したかもしれない。
その時間を少しでも埋めようと良多は琉晴と戯れ、妻と共に家の中でキャンプの真似事をする。そんな折、妻が「琉晴が可愛くなってきた、それと同時に慶多の事を思うと可哀想」と泣く。それでも良多はこれで良かったと、そういう選択をしたはずだった。
翌朝、カメラの中の写真を見るとそこには今まで気付かずに慶多に撮られていた自分がいた。野々宮は自分の気が付かないところで子どもから愛されていたことを知り、慶多のもとへ急ぎ向かう。そこで自分から離れていく慶多に「6年間はパパだったんだよ。出来損ないだけど、パパだったんだよ」と最後に自分の思いを伝える。

この子どもから愛されてるのを実感して野々宮が父になったというのがこの映画だったのかも知れない。

対照的な二つの家庭を単純にどちらが良いと決めつけられないのは、ドライな接し方をしていても子どもから愛されていた野々宮を観たというのもあるが、単に福山雅治が格好良かったというのも多少はありそうなものではある。