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ice_blog

思ったことを忘れないように、考えたことを思い出せるように

12月8日と8月15日

「鈴木」
と親しく名をよんで、退出する首相の足をとめた。
「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた」
と優しく天皇がいった。さらにもう一言、
「本当によくやってくれたね」
といった。

 

『十二月八日と八月十五日』/ 半藤一利
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 夏には戦争に関する本を読むというのがここ数年の習慣となっている。夏に読んだのだから8月にでも感想を書いておけば良いものを、12月に書いたほうがそれっぽいのでは、という考えと怠惰な気持ちから無駄にだらだらと先延ばしにしてしまっていたのがこの本。

75年前の12月8日にその時代のひとたちがどんな思いで開戦の報を聴いたのか、71年前の8月15日に市井の人たちは何を考えて生きていたのか、それを考えるのも良いかと思い半藤一利の『十二月八日と八月十五日』を読んだ。

 

十二月八日と八月十五日 (文春文庫)

十二月八日と八月十五日 (文春文庫)

 

 開戦と終戦の日。人々は何を考えたか
 太平洋戦争開始の1941年12月8日。終戦の玉音放送が流れた1945年8月15日。人々は何を考え、何を発言し、何を綴ったか。(Amazonより)

 

  •  十二月八日

本書は1941年の12月8日午前6時、「帝国陸海軍は西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり」と記者クラブで発表する場面から始まる。
国民への発表は午前7時のニュースとして、その間に各社は号外の準備をすることとなる。

7時となりラジオから前述の大本営発表が流された。それを聞いた人々はどう感じたのか、随筆家の高田保は「生きる目的が明確になった」と日記に記し、後の東大名誉教授となる中根千枝は「身のひきしまる興奮を覚えました。それは二度と経験することのできない、どちらかといえば快感につながる緊張感でした」と回想する。

現代から開戦の日を想像すると、アメリカとの間の如何ともし難い国力の差に絶望しながら開戦のラジオを聞く人が多かったのだろうか、と思いがちだけれど、どうもそうではないらしい。

日清戦争で勝利を収め、日露戦争のあとは大国の仲間入りを果たし、国際連盟常任理事国となり、自国が不利となると連盟よさらば!と席を立つ、そんな外相を拍手万雷で国民が出迎えてしまうような時代である。

また、経済封鎖による閉塞感に包まれていた空気を打ち破ってくれたような感覚だったのかもしれない。

開戦は、くり返すが、恐れと心配の身震いをもたらしていたが、これまでのやりきれなさからの一種の開放感もあった。
そこへこの大いなる知らせである。戦果にはふれられていないけれども、ずっと頭の上にかぶさっていた厚い雲を突き破って、待ちのぞんでいた陽光がカッと射しこんできたかのような、熱気と痛快さとをともなった一撃と国民には映じた。(P78)

 開戦の報に続けてもたらされる真珠湾での勝利の知らせ日本人の多くが狂喜した。評論家の青野季吉は『戦勝のニュースに胸の轟くのを覚える。アメリカやイギリスが急に小さく見えて来た』と記している。

著者の半藤一利はこの日本人の精神構造について、

日本国民は西欧との衝突で日本人の自尊心や国家目的が問われるような事態に直面すると、異常に強烈に過敏な反応を示す。それは戦闘的になる。白い歯をむく。つねに攘夷と言う烈しく反撥する型をとるように思われる。

と分析している。

多くの国民が真珠湾の勝利に酔っていたときに、爽快感とは違うものを感じていた人というのも確かにいたようではある。

後に終戦時に内閣総理大臣を務めることとなる鈴木貫太郎はラジオから聞こえる開戦の報道を聞きながら「この戦争に勝っても負けても、日本は三等国に成り下がる。」と表情を暗くしている。

また、各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリートたちから構成されている総力戦研究所という施設がある。この研究所では演習の結果として、開戦の半年前の段階で、開戦しても敗れるのは間違いないという日本必敗の結論を出している。若手エリートたちはどのような心持ちで開戦のラジオを聞いていたのだろうか。総力戦研究所については猪瀬直樹の『昭和16年夏の敗戦』に詳しく記されている。

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)

 

 

  • 八月十五日

 1941年の開戦から3年9ヶ月経った8月15日、開戦時の熱気と爽快感は既になくなっていた。

玉音放送が収められたレコード盤を奪取することで、ポツダム宣言受諾による降伏の国策をひっくり返そうとしていた陸軍将校と近衛師団将兵の企みは午前7時、失敗に終わった。

同じ頃、関東平野上空に姿を現していた米艦載機130機は「航空攻撃を中止せよ」と命令を受け、陸相官邸では阿南惟幾は自決を遂げていた。

 

大日本帝国ポツダム宣言を受諾することを決めても、「それは内閣の政治上の決定であって大本営からの停戦命令は出ていない」という揚げ足取りみたいなことを平気で言う陸軍がいるかと思ったら、「統帥命令は出ていないので戦闘停止命令を撤回せよ」と激怒する海軍参謀もいるので、こいつら本当は仲良いんじゃないかと笑えてくるし、これは負けるべくして負けた戦争だったのだと納得ができる。
しかし、実際にポツダム宣言を受諾することを決めても降伏文書への調印までは戦争状態が続くという国際法に照らし合わせると、陸海軍の考えも一理ありそうなものではある。

 

数々の12月8日の日記を引用しながらこの日のことを著者は以下のように述べている。

「ほとんとすべての日本人が気の遠くなるような痛快感を抱いたのであり、それはまさしく攘夷民族の名に恥じない心からの感動の一日であったのである」

極東裁判で指導者たちが言い渡された所謂「平和に対する罪」、それが起こった日に多くの国民がこのような痛快感と感動を味わっているのを見ると、政府・軍部が戦争を始め国民は被害者だったという構図が間違いだと分かるし、皮肉にもあの戦争自体が世論と合致した民主主義的な行いのようにも見えてくる。

 

8月15日付近になると戦争の悲惨さや過ちを訴える催し物が多く開催されるが、戦争は始まらないと終わらないので、過去の『終わったとき』よりも『始まったとき』の状況を注意深く見ておかないと気がつかないうちに始まってしまうかもしれないし、それは世論を受け、極めて民主主義的な手続きを踏んで始まってしまうのかもしれない、そんな風にも思った。