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文部省の研究~啓蒙主義と儒教主義の対立~

日本の教育はこのあと、啓蒙主義儒教主義や国家主義など、さまざまなイデオロギーに振り回されることになる。文部省の設置は、今日まで延々と続く、長く険しい「理想の日本人像」探求のはじまりでもあった。

『文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年』 / 辻田 真佐憲
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昨今話題に事欠かない文科省、その前身である文部省の設立背景と目指していたものとはなんだったのか、ということを解説している。
意外と面白かったので一度読んで図書館へ返した後、再び借りてしまった一冊。

そういえば、文科省に関しての新書については2014年に『文部科学省-「三流官庁」の知られざる素顔』というのでまとめていたことを思い出した。

ice24.hatenablog.jp

『「三流官庁」の知られざる素顔』は戦後の教育行政と文科省の空気の解説のような比較的ライトな読み物となっていたが、『文部省の研究』は湯島に教育行政の中央機関が発足した1871年から始まる「理想の日本人像」探求という文部省の一つのミッションを紐解く歴史書のようでもある。

文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年 (文春新書)
 

 文部省を揶揄する言葉はたくさんある。本書で触れられている限りでも以下のとおりである。

内務省文部局、陸軍省文部局、CIE文部局、自民党文教局、日経連教育局...

これは、裏を返せば教育という事業が他の機関と密接に関わっているからであり、その時勢に影響を受けているということでもある。しかし、これは何も昔の話ではないような気もする。

たとえば、経済財政諮問会議の議事録をみても、教育再生が議論に上った途端、財務大臣や経済再生担当大臣など、およそ教育の専門家とはいえない人までもが「私の経験によると・・・・・・」と、自分の経験談をもとに、主観的な持論を展開しています。

『学力の経済学』 / 中室牧子

今も昔もあまりお変わりないようである。

「学力」の経済学

「学力」の経済学

 

 

  • 文部省の誕生

 1869年に木戸孝允が提出した意見書によると、「国の富強は人民の富強である」したがって、一般の人民が「無識貧弱」なままでは、「世界富強の各国に退治する目的」も果たせない。なので、文明各国の教育制度を取捨選択して、全国に学校を振興して教育を施さなくてはならない、一大急務である!とのこと。

明治政府は教育こそが近代化の成否を左右するとして教育行政の中央機関を設けることとした。これが文部省の始まりであった。さすが新政府、賢明で行動も早い!

ちなみに、新政府が最初に大学校を設置したのは1869年、文部省の設置は1871年。文部省よりも先に大学校ができていたというのはなんだか意外ではある。(本書で「一七八一年に文部省は設置された」と書かれているけど多分誤植だろう)

さて、生まれたばかりの文部省の使命は、富国強兵のため国民に教育を施すこと!目標は...目標は...?

  • 学制

1872年、初代文部卿の大木喬任から正院に対して「学制」の大綱が上申された、学制とは日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である。この学制に添えられた前文に当時の「理想の日本人像」つまり目標が記されている。

学制前文では

「悔いのない生涯を送るためには学問を修めなければならない。この学問のために学校はなくてはならない働きをもっている。」

「人は学校という機関をとおして勉励してこそ、はじめて立身出世できるのである」

「従来一般の人々は学問をするのは身分の高い人に限るとして、学問の必要性を認めていなかった。何のために学問をし、学問がいかなるものであるかの認識がきわめて乏しかったのである。」

「文部省はここに学制を定めて従来の民衆の学問に対する考え方を改めさせ、一般の人々にひとしく学問を授けることを計画し、それが実現することを希望するのである。学齢期の子女をもつ父兄は何はおいても必ずその子どもたちを小学校に入学させるよう心掛けなければならない。」

と打ち立て儒学的な考えを否定する。前文は、「国家に奉仕せよ」や「親孝行せよ」という文言はなく、個人の完成を何よりも重視した、個人主義的かつ実学主義的であり、西洋風な啓蒙主義的教育観に基づくものであった。

学制の背景には国家の独立維持のためには、自力で一人前になり社会の発展に貢献する、独立独歩の個人の養成が必要であり、それこそが目標、理想の日本人像と定めたのである。

このような啓蒙主義に対する反動が、宮中からあがることとなる。洋学一辺倒の教育に対して明治天皇が教学聖旨を提示し、「年長者を侮り空理空論を弄ぶことをやめ、農商の子弟なら農商の学科を学ぶべきである」、「孔子を範として誠実品行を尚ぶよう心掛けなくてはならない」と主張された。(起草は元田永孚だといわれる)

天皇が教育に対して考えを述べるというのは現代では考えられないことだが、当時は明確に意思を表している。学制で儒教的な考え方を否定した文部省であったが、天皇の意向により徐々に儒教主義が力を増していく。

啓蒙主義儒教主義の対立は自由民権運動とそれに対抗する政府側の思惑という要素も絡み推移していく。

 

天皇の意向により、儒教的な考え方が盛り返してきたところであったが、これに影響してきたのが市井の自由民権運動の盛り上がりであった。

従来の啓蒙主義的な教育観は個人を尊重するため自由民権運動と親和性が高かった。これが中央集権的な国家づくりを目指した新政府と相対していたのである。

 

(新政府)中央集権:(宮中)儒教主義

⇔(文部省)啓蒙主義:(市民)自由民権運動

 

新政府としては国家による統制を目指すため儒教主義へとシフトしていくこととなり、第六代文部卿福岡孝弟の時代には、「尊王愛国の志気」の養成を目的とした「小学校教則綱領」を制定し、独立した個人を作るのではなく、上から愛国心を注入する方針に変わっていった。

 なお、福岡孝弟は三条実美宛の書簡で、「国体に感染させるには国歌を作り音楽に載せることが効果的!」と述べており、『個人の完成』とか『実学主義』などという西洋風な啓蒙主義的教育観は風前の灯火と言っても良いような時代でありました。感染って...

(しかし文部省音楽取調掛の作成した国歌案『明治頌』は冗長すぎて『君が代』を国歌とすることとなった)

啓蒙主義でもなく儒教主義でもない教育方針が必要なことは明白であった。

1890年に各地方の知事により開催された地方長官会議にて、「自由民権運動が高まり共和制の導入を唱えるものまでいる」と地方の治安維持について不安を述べている。

これを受け当時の首相である山県有朋は、欧米列強に対抗するためには自由民権運動を抑え、国民の意識を統一することが軍事上急務だとし、軍人勅諭と同様の勅諭が教育にも必要として教育勅語の編纂が必要だと考えた。

この教育勅語の編纂を任されたのが、当時の法制局長官の井上毅だった。井上は、山県宛に「漢学の口吻と洋風の気習」を持ち込んではならないと述べ、啓蒙主義にも儒教主義(とその背後にいる元田永孚)を牽制している。更に、「この勅語は政治上や軍事の上のものでもないし、宗教や哲学上の理論も持ち込まない。あくまで君主の著作公告だからね!君主は臣民の良心には干渉しないんだから命令ですらないからね!」と山県までも牽制している。

このように井上は啓蒙主義でもなく、儒教主義でもない第三の道を模索し、四ヶ月という短期間で教育勅語を完成させた。仕事が早すぎる。なお、井上は「大日本帝国憲法」の起草にも関わっている。すごい。

ちなみに教育勅語が制定されたのは日清戦争の前、日本が弱小国で欧米列強が植民地を求めて侵攻してきていた時代だというのは憶えておく必要がある。

 

[まとめ]

個人の独立独歩は国の反映に繋がるはず(啓蒙主義

明治天皇元田永孚)「そんなのは幻想で、年長者を侮ることになりかねない。農商の子には農商の学科を学ばせた方が良いでしょ」(やっぱ儒教でしょ!)

啓蒙主義自由民権運動と合わないので儒教の流れに

各地方の知事「治安の維持がままならないので教育をなんとかして」

井上毅大日本帝国憲法の起草)による教育勅語の編纂
啓蒙主義でもなく儒教でもなく第三の道としての教育勅語
(微妙に儒教と距離を置くことに成功!)

 

つづく(長い)